飛行機で七時間半。
暖かくなってきたものの、まだ寒さの抜けきらない三月中旬。雨季と乾季の境目、常夏のバリ島に到着した。空港を出た瞬間のじとりとした暑さに一瞬目眩がしたものの、羽織っていた薄手のパーカーを脱いでTシャツ姿になると気持ちが良かった。
飛行機の中でガイドブックを眺めて、機内食を食べて、本を読み、うたた寝をしてたどり着いた異国は想像とは少し違っていた。
手続きを終えてエントランスを抜けると、たくさんのタクシーの呼び込みとガイドの迎えによる熱烈な歓迎を受けた。その中で“REN SAMA”と書かれたカードを見つけ駆け寄ると「ハイ、レンさんですか?」と、褐色の肌に映える白い歯が覗いた。
「yes」
「ようこそバリへ、ガイドのジャッキーです」
「初めまして、レンと、トラ。今回はよろしくお願いします」
「ハイ、こちらこそ、レンさん、トラさん。車こっちね」
流暢な日本語を喋るジャッキーはまだ24歳だという。僕らよりいくつか年下であることをホテルまでの車内で話すと律儀に敬語を交えた日本語を口にした。
空港からホテルまでは車で十五分ほどの距離だったけれど、渋滞した道では倍の時間が必要だった。車とバイクが今にも触れそうなほど近くを走り、クラクションがあちこちで響く道は、丁度サンセットの時間帯らしく綺麗なオレンジの世界に包まれていた。
虎はそんな町を無言で眺めながら時折繋いでいる手の先を擦ったりしている。
「今夜はナニ食べる?」
「何食べよう、お腹はすいてるよね」
「すいてる」
「ホテルの近くワルンいっぱいあります。大きいショッピングモールもあるしバーもコンビニもあるし、困ることないと思います」
「ジャッキーのおすすめは?」
「ジャッキーのおすすめ?インドネシア?」
「そうだね、せっかくなら」
車は空港からホテルまでを無事に走り終え…途中何度もバイクと接触しそうにはなったけれど…今夜一晩だけ泊まる宿で停車した。チェックインを済ませて一旦荷物を置きに行く間にジャッキーはお店をいくつかピックアップしてくれ、その中から僕らはジャッキー一押しのお店を選んだ。
店までは歩いていけるからと、三人で歩き出してみると確かに道の両脇にはコンビニに薬局、露店が隙間なく並び、お洒落なテラス席が現れたかと思えば日本でも馴染みのコーヒーショップやアイスクリーム店のロゴが光っていた。そして何より驚いたのはやっぱり、とにかく車とバイクの行き来がすごいこと。横断するにも歩道の信号があるわけではない為一苦労だった。
こんなにも栄えた場所でありながら、工事中のまま放置されたような場所が点々とあり、道路の舗装もされていない。観光客が歩くには少し大変な道だ、と僕はわくわくしながらこっそり虎の手をとった。
「チキンの甘辛く煮たのがオイシイですよ」
「チキン?さっき見せてくれた写真?」
「ソウ。AYAM PEDAS」
「アヤム ペダス?」
「ソウ、それに、ご飯でもいいし、ナシゴレン合わせて、食べます」
「へえ、楽しみ」
「あとは、SOTO AYAM」
「ソトアヤム」
「ウン、チキンのスープ、ちょっとニホンの、カレーみたい。野菜もたくさん入ってる」
ジャッキーおすすめのメニューはガイドブックを眺めているだけでは見落としてしまうような名前ばかりで、僕はその一つ一つを声にして繰り返した。その途中で路面店の店員さんに幾度となく声をかけられながらたどり着いたお店。愛想の良い、自分の両親と同じ年代であろう女性が出迎えてくれた。ジャッキーはメニューを眺めいくつも質問する僕らに丁寧に答えをくれ、注文から会計まで一緒に居てくれた。
食事のあと少し露店を見て、スーパーに寄り、ホテルに戻る頃にはすっかり夜だった。
「じゃあ明日、七時半にここ迎えにキマス」
「ありがとう、気を付けてね」
「ありがとうございます」
「おやすみなさい」
「おやすみね」
長いフライトと体に馴染まない暑さからくる疲れは、部屋に入って荷物を下ろした瞬間にやってきた。虎はソファーに深く腰掛け、スーパーで買ったばかりのカットフルーツのパックを開けた。
虎とゆっくり海外旅行なんて、大学の卒業旅行以来だ。何ヵ月も前から休みを合わせ、計画をたてた今回の旅行は、とびきり贅沢もしてしまおうと、明日からの四日間はヴィラで過ごすことになっている。
「美味しい?」
「上手い。ん、」
「ありがとう。パイナップル?」
「多分」
「多分?」
虎の隣に座ってフォークに刺されたパイナップルを口に押し込むと、甘い味がふわりと鼻から抜けて広がった。
「美味しい」
「な」
「ご飯も美味しかったね」
「ビールも」
「ビンタン」
「ああ、レモンの方」
「美味しかったね〜。明日は何食べよう」
「早いな」
「あはは、だってせっかくの旅行だよ」
決してランクの高いホテルではないけれど、ベランダに出ると出入り自由のプールが中庭のような空間に設置されている。一度部屋を出て階段をおりなければならないものの、アルコールを出しているのかバーカウンターまで見えた。
「あー…来ちゃったね」
「ん」
「明日は海」
「ああ」
「波どうかな」
数年前に達郎くんに半ば強制的に勧められ始めたサーフィンが虎には合っていたらしく、それは今回のバリ旅行の目的の一つとなっている。サーフガイドも兼ねているジャッキーは明日の波具合でポイントを決めてくれるらしい。
空調が静かに唸るのと、プールからの声が遠くに聞こえるシンプルなツインルームには甘いフルーツの匂いが満ちている。少し汗をかいたおかげで腕のベタつきが気になるけれど、今の日本の季節では感じることのないその感覚が非日常的で胸が弾んだ。
「シャワー浴びる?」
「先浴びて」
「いいの?あ、鞄開けないとね」
大きなスーツケースの中は半分以上が空白で、着替えの服と下着、持ち歩くための小さめのタオルとバスタオル一枚。あとは持って行った方が良いと言われた日焼け止めに虫除けスプレー、虫刺されの塗り薬、あとは常備薬くらいだ。そのため着替えを用意するのに手間はかからず手持ちのリュックからスマホの充電器と変換プラグを引っ張り出し枕元のコンセントに差し込む。レンタルしたWi-Fiも充電器に繋ぎ、部屋に用意されていたガウンとタオルをまとめてバスルームに入った。
大きな鏡が備え付けられた洗面台もトイレもバスルームも簡素ではあるものの文句なしに綺麗で何の不満も生まれなかった。
僕がシャワーを浴び終えバスルームを出ると、虎も既にお風呂の準備をしてベランダに出ていた。湿気を含んだ生ぬるい風が遮光カーテンを揺らしている。火照った体に室内のクーラーは気持ちが良いけれど、自然の風もまた心地よく。その背後に近づいて「シャワーありがとう」と声をかけると、好きでたまらない声が「俺も浴びる」と返事をした。
もう深夜に近い時間ではあるものの、プールには数人の宿泊客が水着姿で屯している。一階の部屋だとベランダからそのままプールに行ける仕組みになっているらしい。なるほど、そういう部屋もいいなと少し羨ましく思った。
それから虎がシャワーを済ませ髪を乾かして歯磨きをして出てきたのはほんの十数分後。僕はガイドブックで気になったものをベッドに腰掛けて調べていた。「これ美味しそうだね」と、隣に座った虎にスマホの画面を向けると「辛そう」と小さく笑われてしまった。さすがにシングルベッドで虎と一緒に寝るのは厳しく、数回のキスを交わした後鼻先をその首筋にこすり付けどっちのベッドが良いかと問う。虎は返事をしないまま僕を抱きしめ体を横たえた。
「あはは、一緒に寝るには狭いよ」
「いいよ」
「虎足はみ出てる」
「蓮も」
「暑くない?」
「暑い」
「ふふ、寝れそう?」
「ん、」
「明日も早いしね」
「ああ…」
「朝のバイキングも楽しみ」
「おやすみ」僕のそれに返事をしたかしていないか、曖昧な吐息を漏らした虎はそのまま眠りに落ちた。部屋の照明を落とすとほんのり青いフットランプが部屋の足元を気持ちばかり照らしてくれているのに気付いた。けれど、しっかり体を寄せ合ってベッドから落ちないように布団にくるまるとそれも意識の中から抜け落ち僕もすぐに眠ってしまった。唇に残ったお風呂上りの虎の温度を最後まで感じながら。
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